=柴草玲『レクイエムを語る2』=

【怒られるのが怖くて、うっかり練習していた。】

―柴草玲が、なぜ歌うようになったのか?ということを、今回は詳しくうかがっていきたいのですが・・・。音楽経歴の始まりは、ピアノのお稽古からという。
「そうですね、もともと兄が習っていて、それを真似して弾いていたらしいんですよ。それを見ていた親が、これは習わせたほうがいいのではと思い、やらせたら、これが何故だかやめなかった。そうやって続けていくうちに、近所でもピアノの上手な子ともてはやされ、音楽学校へ進んだほうが良いのでは、といわれ受験をするんですよ」



―将来はクラシック・ピアノの道、ピアニストになるんだと思っていたの?
「イヤー、自分ではクラシックをやりたいとは思っていなかったと思いますよ。たまたま、そこそこ弾けてしまったので、とりあえずピアノを弾く道に行こう、というカンジ。クラシックのコンサート・ピアニストになる人というのは、小さいときから英才教育を受けていて、レベルが違うのではないかと。自分はどうもそのレベルではないようだ、ということはわかっていたみたいで・・・。だけど、周りがそうやっていってくれるものだから、それも良いのかな?という感じで、自己を持たないまま進んでいたんです」



―それでもピアノを弾くのは楽しかったんだ。
「小学校の終わりごろから付いた先生が、とても厳しくて怖い人だったのですよ。それで怒られないように、うっかり練習してしまったんです!! と取材などで話しているんですけど・・・。確かにそれなりに弾けるようになっていくうちに、楽しくなっていたんでしょうね。必死で怒られないように練習をしている一方で、歌謡曲を弾きながら、勝手に歌うことも好きでしたね。ただ、自分の声にコンプレックスを持っていたので、それはこっそりとやっていました」


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【形になっていくことが、職人的に面白かった。】

―どうして声にコンプレックスを持つようになったのですか?
「親から、もっと声がきれいだったら良かったのに、といわれたり、変な声といわれたり、そういった一言一言の積み重ねから、自分の声は変なんだと思い、歌うことは自分にはできない分野なんだと、思ってしまったんです。だけど今考えてみると、どうやら、弾き語りをするということに、すごい憧れを持っていたみたいなんですよ」



―それはどうして?
「そのころって、八神純子さんや、上田知華さんなど、弾き語りの女性シンガーソングライターが、テレビに良く出ていましたよね。それを見ていてカッコイイと、どこかでおぼろげながら思っていたんですよ」



―そうこうしていくうちに、音楽学校へ進むわけですよね。中学受験をしたの?
「いいえ、中学は地元へ行き、高校で音楽学校を受験したんです。このころは与えられたモーツアルトやベートーベンを、よくわからないままに、でもひたすら弾いていましたね。クラシックって面白いんですけど、練習をすればするほど、それなりになるんですよ。なんか職人的に形になっていくのが面白かった」


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【山下さんを見て、自我が目覚める。】

―玲さんが中学、高校のころというには80年代。ニューミュージックや、ポップスが全盛のころではないのですか?
「そうですね。テレビの番組から流れてくるヒット曲とかは聞いていたし、中学に入って、オフコースとかがはやったり、兄がギターをやっていたので、さだまさしさんの曲を一緒に歌ったりしていました。中でもオフコースのコードの使い方は、オシャレだなと思っていたんですよ。ただ、洋楽とかは、大学に進むまで、本当に聞いてなかったですね」



―洋楽を聴くきっかけになった事は?
「高校の終わりごろに、先生に関係から学校で山下洋輔さんのライブが行われたんです。その破壊的なプレイを見て、めちゃくちゃにカッコイイ、すごいと思い、山下さんが書いた本とかも読み漁ったんです。で、どんどん逆行していき、これはもうジャズ研に入るしかないと思ったんですね。ところが大学になって入ってみたら、これがみんなうまくて、私なんてぜんぜん相手にされなかった(笑)でも面白い人もたくさんいて、そのころの影響というのは、かなりありますね」



―ピアニストになろうということは、そのころになると、思っていたんですか。
「ジャズ・ピアニストになろうと思っていたんです。山下さんを見て。そこで始めて音楽に対する自我というものが、出てきて、ジャズや洋楽などなど、いろいろな音楽を聴くようにもなっていったんです。そうこうしているうちに、都内にある生演奏の入っているお店で、仕事ができるようになり、大学を卒業するころには、かなり増えていたんです。で、このままこれで食っていこう思い、卒業してからも1年ぐらいやっていたのかな。カッコイイと思って始めたジャズ・ピアノなんでけど、あまりうまくならなくて、本当は好きじゃないのかも? とか思い始めたり・・・、あとプレイ・レベルがそういう感じなので、そこそこのお店にしか出られなかったりする。そうすると、そこそこのプレイヤーというか、結構屈折した親父とかがいて、何のためにピアノを私はやってきたのだろう?と思ったりして・・・。やめようかなと思っていたときに、女の子バンド(チカブーン)の、オーディションの話があり、そこではじめてメジャーな音楽業界に入ったんです」



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【曲作りは楽し、人の鼻歌にコードをつけるのは嫌】


―チカブーンは、ビクターからメジャー・デビューをしていましたよね。
「私は、3枚目のアルバムぐらいから参加したのかな。はじめは見習いみたいなカンジだったのが、次のアルバムを作るということになり、そこで始めて歌物の曲を書いたんです。ほかのメンバーも曲は書くんですけど、コードとかを把握できる人がいなくて、新人の私がいきなり、アレンジ面とかに関わったり、譜面を起こしたりと、音楽的雑用をやらざる得なくなった」



―それは楽しかった?
「曲を作っているときは楽しかったけれど、人の鼻歌にコードをつけるというのは、死ぬほどいやだった(笑)」



―なんで?
「今もそうですけど、たぶん自分にしか興味がなかったからじゃないですかね(笑)。でも、レコーディングで、ディレクションをやらなくてはならなかったり、あと世間が言うところのキャッチーとは、こういうことなのかとか・・・。このころの音楽的雑用は、経験は、結果的にいろいろと鍛えられたし、良かったなと思いますね。それから、メジャーに踊らされるむなしさ、というのも味わいましたね。そんなこんなで3年ぐらいチカブーンをやり、95年に脱退したんです」



―90年代前半というのは、音楽バブルの末期で、マーケティングと方法論で売れると錯覚していた時代。タイアップ先行で、音楽そのものに対する視点が薄れていた時代ですよね。
「そう、いかにキャッチーなサビにしてタイアップをとるか。そこに踊らされてしまった。そんな経験が、メジャーに対する妙な幻想を払拭してくれましたね。でもそこでディレクターをはじめとした、いろいろな人との出会いが、のちのCOOCO の曲へとつながっていくんです」



―バンド活動の経験が曲作りの楽しさへと至ったの?
「一人で曲を作るのは、誰からも邪魔されないし、楽しい!!と思っていたと思うんですよ。で、バンドをやめる前から、キーボーディストとして、人のライブとかを手伝ったりしていたんです。そこでのつながりから、ミュージシャン事務所の入ることになり、いきなり大江千里さんのツアーに参加。シンセとか、ぜんぜんわかっていないのに、わかったふりをして、結構はったりでツアーを回っていた。そのツアーでコーラスをとらないといけない羽目になり、はもって歌うということも楽しくなっていたんです。もちろん自分がソロで歌うなんてことは、微塵も思っていなかった」



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【失恋のエネルギーを曲に還元することを覚えたとき


―それが歌いたいと思ったのはいつ?
「上田現山野、松雪泰子のツアーなどで、ソバージュ、ボディコンのいけいけのキーボード姉さんをやっている間にも、曲を書いて見ないか?という話をいただいて、それらは実を結ばなかったんですけど・・・。そのうちCOOCOの詞を見てくれないか?という話が来て、彼女の詞に曲をつけることになり、そのころからですよね、自分で歌い始めるのは。というのも、詞先で曲を書いて渡すときというのは、歌を入れないと譜割りとかわからないじゃないですか。デモ・テープの形にするということが、面白くなっていたんです。でもまだ自分でライブをやって歌う人だとは、思っていなくて、歌うということは、ひそかな自分の楽しみだったんです」



―デモでも・テープの歌を聞いて下手だ! と否定する人はいなかった。
「そうそう、それは大きかったですね。小さいころから声に対するコンプレックスがあったので、歌を否定されなかったということは、うれしかったですね。その反面、そのテープというか、曲は他人に渡したら、そこで終わりなわけ」



―つまり、柴草玲の歌は消えてしまうということ。で、自分の歌を残したいと思った。
「そういう思いも少しはあったんだけど、そのころは詞が書けなかった。本当に書きたいことがなかったというか、書くほどのことが何もなくて・・・。そうこうしているうちに、そのころ付き合っていた人とのことが起こり「あじさい」の歌詞ができるんですよね。ちょうどそのころ、ニーナ・ソモンとかのカバーとかをやるピアノ・トリオ・バンドをやっていた、そのメンバーでデモ・テープを録るという事になり、そのときに「あじさい」を弾き語りで録ったんです。で、こうやってオリジナル曲はできていくんだと思い、作っていけるかも、と思ったんです。その辺からですかね」



―身を削った体験が歌うことを決意させ、そこで生まれた、実らない思いへのエネルギーがオリジナル曲となった。
「曲に還元することを覚えたというかね。また自分が歌えば気持ちがいいし、ということも覚えちゃって、後はもうそのまま、それで来ているというカンジ。最近は、あまりにも自分のリアルな体験を歌っているので、ある意味、私小説をさらけ出しているようなところが、あるじゃないですか。「あじさい」に代表されるように、幸薄いというか、かわいそうなイメージを皆さんにもたれていて、逆にそれを期待されているカンジもあるんです。でも人は日々変わっていくものであるし、私は今、その辺をどのようにして折り合いをつけていこうかなと、考えているんです」





                    text by Mika Kawai
 


  1999年4月から本格的弾き語り活動に入る。
  数々の女性アーティストに曲を提供しながら、新宿マローネ、吉祥寺スターパインズカフェ、
  赤坂エレクトリックチャーチ・ラブなど、都内のライブハウスを中心に、月2〜3回のペースで
  コンスタントに弾き語りライブを行っている。



  レクイエム   2002.2.14. out !   SSDF-3007 1.890yen(tax in)
1. レクイエム  2. P.S.  3. 蒼い影  4. オキナワソバヤのネエサンへ  5. 宴  6. 吸い殻とノクターン



−ライブ−
 6/15(土) 鎌倉歐林洞Live "あじさい"
   場所 : 鎌倉歐林洞ギャラリーサロン
   開場 : 15:30 開演:16:00
     料金 : 3,500円

−レギュラー−
 毎週 (水)20:30〜 FM栃木「イヌラジ」

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